2022年7月21日木曜日

金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』雑感メモ③「絢爛の椅子」

はじまりとしての「絢爛の椅子」について。「絢爛の椅子」こそを、そこに据えて考えるべきだろうと思う。書くことのはじまりの、まさしくそのはじまりとしての「絢爛の椅子」について。「絢爛の椅子」という作品こそが、その中にて書かれた〈されば、敬夫は作家である、という一見大胆に聞える一行でよい。〉という言葉こそが、後に書かれることになる金井美恵子の作品を、運命づけている気がしてならない。 慎重に踏み出すこと、手探りの速度で、迂回し、引き返し、逡巡と躓きと後退を繰り返し、それでも確かに近くへ、カフカの方へ、深沢七郎の方へ、作品を成立させようとする作家の行為と命運の方へ、絶えず接近を試みるような。この「絢爛の椅子」こそが、はじまりではなかったか。作家としての金井美恵子の。 
〈断食芸人は自分の口に合う食物が絶対的に存在しないことを知っていたのだ。それはまさしく死と親しいまじわりを結んでしまった人間の特質であり、死との親しいまじわりの中から、あたかも、そのまじわりが生み出す冷たく暗い情熱のようにして、作品行為は成立する。断食とは、その本質的な不可能と自己矛盾において、作家の行為なのだ。〉…〈『楢山節考』において、極限に近づき得た深沢は、しかし、そこから帰って来る以外にない辰平(作家としての自己)を書くことによって、書きつづけることで繰り返し死へ近づこうとする運命を暗示したのである。おりんの死は、自己の死でもあったのだ。〉 
金井美恵子は彼等の作品を介して、彼等の作品を読むことと書くことを通して、作家という存在が如何なるものであるのか、その運命づけられていること、書く者をおそう狂気や願望の不可能性や、作品と作家が〈自己の死に結ばれた人間の結ばれかたと似た異様な形態〉で結ばれていることを思い知るのだし、そちらへと、限りなく接近しようとするのだ。この「絢爛の椅子」をはじまりに据えて考える時、自分が思い出すのは『柔らかい土をふんで、』において〈シューシュー音をたててのぼ〉る月と〈水蜜桃〉のことで、金井美恵子の中で〈言葉の持つ力〉と結びつくそれが、いずれも深沢七郎の言葉であることなのだ。