〈題名が示すように、この本は過渡的な性格を持っているが、当然のことながら、この本のみが過渡的なわけではなく、わたしの書いたすべての本(あるいは書かれるはずのすべての本)に、『書くことのはじまりにむかって』という題名をつけたとしても、わたしとしては奇異な感じはしないし、それほど突飛なことにも思えない。〉
…絶えず意識して書かれているのだということ。常にそちらへと、書くことのはじまりの方へと向かっているのだということ。それを問うことの迷宮性の只中にあって、これまでも幾度となく書くことの方へと立ち戻り続けているのだということ。書くことをめぐる、書くことの謎をめぐる情熱のすべて、怖れや官能や、書くという行為自体の持つ避け難さや未完性について。関心は絶えず向けられていて、まるでそうするほかないかのような。書くことをめぐって書きつづけることを金井美恵子に選択させてしまう、快楽と欲望を、或いはその緊張と苦痛を考える時、また金井美恵子の書く言葉がそれらに絶えず貫かれているものであることを感じる時、自分はやはり金井美恵子という作家が一番好きなのだ、と思う。
2022年7月21日木曜日
金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』雑感メモ②結び付いているもの、貫いているもの
〈去年の冬から早春まで、私たちはワンピースやセーターをせっせと編みながら、春蒔きの種子について、何を蒔くべきか、園芸雑誌や園芸百科やカタログを調べていろいろ夢想していたが…〉冬から早春にかけてワンピースやセーターをせっせと編む金井姉妹。「耐える季節」の〈二つの石油ストーヴにやかんとスープの鍋をかけて背中を暖めながら本を読んだり編み物をしていると、あっという間にときは過ぎて夏になってしまうのだが…〉と言う文章が自分は大好きなのだけれども、自分の中で、編むことや縫うことと、金井美恵子を読むことは、大変近しい。その両者はとても親密であって、密接に結び付いている。例えば大物を編んでいる時の冬のはやさは当然実感できるものであるし、何よりも手仕事をしている際の集中や細かさや近さや緊張やわずかな億劫さや果てしないなあと思うことや楽しさや充足感を、自分は金井美恵子を読むことで思い出す。それは指の記憶であり、目の記憶であるもの。縫ったり編んだり、縫い目や編み目を見たりする、自らの身体の記憶。しかし考えてみれば『柔らかい土をふんで、』のあの〈複雑な仕立て方がいかにも大時代というか非現実的でさえある黄色い小花プリントのローン地のドレス〉が、縫うようにして書かれたものである以上、その小説なりエッセイなりが、縫ったり編んだりする(或いは縫うようにして編むようにして、書く)作家の手によって書かれたものである以上、読むことによってこちらの記憶、縫ったり編んだりしている際の指や目の記憶を引き出されてしまうのは、やはり当然のことなのだ。