自分が高橋たか子を好きな理由は、高橋たか子が快楽を書く人だからだ。自らの欲望と快楽を殉教的なまでの執拗さと切実さと厳しさをもって書き続けていた人だからだ。昏く煮えたぎるようなそれを、深く潜り続けたその先を、超えて行く様を、書くべきものはそれとばかり、書き続けていたからだ。自らを現実的な生活をそつなくこなす方の人間であるとしながら、つぶさな日常茶飯の事柄を、書くという行為の内側からは切り離していた人であるように思う。むしろそういった現実的な生活の範囲に属する多くの事柄が、高橋たか子の中で書くという行為に結びつくことがなかったと言うべきなのだろうか。…そこに彼女の書くべき快楽や欲望は、なかったのだろうか。捨てて行くべき、不必要なことだったのだろうか。ただ降りて行くこと。見尽くして、知り尽くして、超えて行こうとすること。それは何かを通して表現されるものではないのだ。その快楽と欲望自体が、書くことの目的なのだ。書くことは自らの内から現実を削ぎ落とすこと、自らを現実から切り離して、その欲望と快楽の純度を高めて行くことでもあるだろう。