2022年11月12日土曜日

『金井美恵子全短篇Ⅰ』メモ②

作家に〈死〉は訪れない。完成としての〈死〉は、恩寵としての〈死〉は訪れない。作家は自らに結びつく〈死〉を見つくそうとして、限りなく〈死〉へと接近するけれど、作家は完成としての〈死〉へは至り得ない。〈死〉を語るためには、いずれにせよ〈死〉から戻って来る必要があるからだ。書くことの内にある作家はその行為自体が持つ命運に囚われている以上、それゆえに死ぬ訳にはいかない。作家が〈死〉を完成させる時、作家の分身たる〈あなた〉もまた消滅する。わたしを外側から見るもう一つの眼、内なる他者である〈あなた〉もまた死ぬ。完成としての〈死〉によって、それを語る者たちの消滅によって、小説は終わる。「降誕祭の夜」の、陰惨さの果てに聖性を帯びて幸福な、恩寵として訪れ、誕生する〈死〉、或いは「永遠の恋人」の、黒猫に姿をやつして現れる〈死〉の甘やかさ…自分が「永遠の恋人」という作品を愛するのは、愛の完成であるかのような、猫の姿形をしたかの〈死〉があまりにも輝かしく蠱惑的であり過ぎるからなのだ。〈死〉が完成する時、いずれにせよ小説は終わる。 
或いは懲罰される無邪気というものについて。追放されている存在としての作家。〈いわゆるジャーナリスティックな、表現の自由や言論の自由というものの、はるか手前で、わたしたちは書きはじめる時、すでに自分の自由を裁くもう一人の自己を発見しているのである。〉〈書きはじめることの中に、おのれの子供らしさへの懲罰が含まれていないことは、まずないように思われるからだ。〉〈もしかすると、文章を書くということも、自分に強いた沈黙から言葉を取り返す試みではなかったのか〉…作家はしばしば沈黙を強いられる。作家は言葉を、行動を制限される。いずれも不条理な、懲罰とでも言うべきような形を以って。恐らくはその無邪気さゆえに。その願望が持つ未完性と不可能性のために。書くという行為に必要な傲岸さのために。恐らくは作家自らの言葉と指によって。自らの子供らしさゆえに懲罰される作家は、けれど、当然のことながら、子供ではない。作家が語りはじめるには、まず追放されていなければならないのだ。かつていたそこを幻惑として語りはじめること。「山姥」の祖父は、自らの追放された至福、〈征服と新鮮〉の甘美さを、そこに帰って行くことを夢見て、恩寵が自らに訪れることを夢見て、語りはじめるのだし、語りつづけるのだ。…自らの願望を語りだすためには、それを語る相手がいなければならない。少年は祖父の語りを聞くことで、祖父の〈死〉の完成を見届けることを運命づけられるのだし、自らもまた追放されてしまう。或いは追放されてなお夢の時間に閉じ込められる形でとどまり続けるあの少女時代の亡霊の薔薇色の肉。