その〈からだ〉が〈通りぬけてきた〉もの…〈戦争前があり、戦争があり、飢えを死り、土を耕すこともおぼえ、それから、戦後があった。〉にじみだすようにして立ち上って来るそれら。何を語るにせよ石井桃子はこちらに何も押し付けはしない。小さなことも、大きなことも、いつもただ具体的に、簡潔に語るだけだ。余剰なく、不足なく、日常茶飯の、目の前にある言葉を用いて語るだけだ。その簡潔さは時として、簡潔さそれ自体がユーモアとなり得る。例えばイノウエキヌ子さんである。〈猫は、ひととびで、ぴょんと寝ている私の胸にとびのって、上から私の顔をながめて、ゴーロゴーロとのどをならした。〉〈これで、猫の運命はきまったし、私の運命もきまった。〉何というこの上なさだろう。磨かれて、削り落とされて、言葉はいつも十全の状態なのだ。
2022年12月16日金曜日
『石井桃子コレクションⅤ エッセイ集』
〈そのうち、やみと一しょに、もう一つのものが、私をつつみはじめた。においである。〉〈ほのかな、あまいむらさきがかったようなにおい。いや、においが、私をつつんだというより、私が、ふわっと、その暗いくせに、色のある世界へはいっていったという方が、あたっていたろう。〉石井桃子の言葉は〈からだ〉なのだ、と思う。色やにおいやあたたかさや柔らかさを繊細に感じとる〈からだ〉…細々とつぶさでつましい、些事や雑事の連続である日常茶飯に生きて、そこで暮らしていて、ひとりでいることの静けさと落ち着きを愛し、けれど目の前にあるものたち——家や庭や花や季節や山や、犬や猫や人や本やお話や言葉といったものたちにむかって、豊かに、穏やかに開かれてもいる、〈からだ〉そのものなのだ。ただ夢中で読むことの楽しさを、夢中になることの不可思議さごと、その光景ごと記憶する〈からだ〉と、〈何度も何度も心の中にくり返され、なかなか消えないもの〉を書いて、〈おもしろくて何度も何度も読んで、人にも聞かせて、いっしょに喜んだもの〉を翻訳したのだと語る、石井桃子の仕事の数々は、どうしたって結びついてしまうだろう。〈…私は、プーという、さし絵で見ると、クマとブタの合の子のようにも見える生きものといっしょに、一種、不可思議な世界にはいりこんでいった。それは、ほんとうに、肉体的に感じられたもので、体温とおなじか、それよりちょっとあたたかいもやをかきわけるような、やわらかいとばりをおしひらくような気もちであった。〉比喩などではなく、石井桃子はこのプーとの幸福な出会いを、〈ふしぎな世界へつきぬける〉瞬間の、そのあたたかさとやわらかさを、自らの〈からだ〉を以って、本当に生きたのだ、と思う。