〈霊感によって衝き動かされたときはじまる世界への旅立ち〉…書くことのはじまりへの旅立ちを告げる〈あなた〉の不在。小説はいつも欠如よりはじまる。欠如から書きはじめること。〈はっきりしていることはつまるところ唯一のものにつきただろう。それは彼の不在であり、それだけが信ずるに足る唯一のものではなかっただろうか。不在に接近すること——無益な探索と期待の中で不在によって魅惑されること。不在、彼のわたしの内部における不在、ではなくて、それは死によって満たされ完璧に閉ざされた世界をわたしが所有することだ。〉…この不在、欠如をめぐって夢想する作家の言葉を、どうしたって思い出してしまう。〈わたしはベッドの中で闇に取り囲まれながら夢想する。手紙を書くことだ。手紙を書く相手は、実はわたし自身の生れかわりである男で、書くのはもちろん、わたし自身なのだけれど、もし、生れかわりの男に手紙を書くのだとすれば、わたしは一度死んでいなければならないわけで…〉〈この果てしない堂々巡りは、最初から成立するはずのないものを望んでいるのだから、不可能な結果しか望みようがないだろう。〉行為と願望の不可能性。他者が必要なのだ。作家が書くという行為を成立させるためには。〈《わたしたち》でなければならないのだ。わたしたちは二人である必要がある。一人でいるということの意味、それは欠如だった。〉〈アイを囲繞している世界の欠如には燃える孤独が充塡されていた。〉それは〈魅惑しつくされた魂が受ける呪縛〉であり…例えば「絢爛の椅子」の中で、断食芸人の行為を〈その本質的な不可能と自己矛盾において、作家の行為なのだ。〉と語ること(断食芸人は〈おのれの内に他者が存在すること〉を知っている。〈おそらく自己の内のこの他者を除いては、わたしたちは書くことがないのであり…〉)、或いは敬夫の語りを通して作家の語り、〈予感によって全身をおののきにゆだねて霊感のやって来る彼方〉を見つめる作家が〈その霊感について語るためには常に他者を必要とする〉ことを語った言葉。小説はこれらの言葉、〈敬夫は作家である〉と言い切るに至らせたこれらの言葉が、単にカフカや深沢七郎の〈書くということ〉に対する共感を示すものではなく、彼等の指し示す作家の命運に対する共感によってのみ書かれたものではなく、金井美恵子が自らもまたその〈不幸で不可能な試みのあくない無限の繰り返し〉の只中にあること、そしてそのようにして書き続けること、そのような不可能性の中で自らもまた書き続けることを宣言するためのものでもあったのではないかと思わせる。〈…ところで、わたしにとっての夢の本といえば、この不可能な不在の彼との手紙のやりとりであって、不在の彼が、実はわたし自身であるという、わたしにとっての逆説なんかでない真実にしか、わたしの夢と書くことへの願望はないのである。〉