2022年12月21日水曜日

金井美恵子『昔のミセス』を読み返してしまう理由、及び少女の自尊心と紋切型の感慨と森娘の膀胱。

金井美恵子を夢想なり記憶なりへと誘う、物語ではなく、物。つぶさで細かで近しく有用であったり無用であったりする物、手袋やピンクッショやダルナさんのブラウスや〈古い鏡付きの小さな箪笥の上に飾られた花の写真〉や料理カードや広告ページや〈68年九月号の森茉莉「私の美男子論」の北杜夫の写真の本棚〉に写っていた大江健三郎の『万延元年のフットボール』や澁澤龍彦のエッセイや〈京都・柏原氏邸の夫人の部屋〉や森茉莉その人の写真、などの、どこまでも具体的な物たち。それらによって引き出された夢と記憶ごと物そのものを読むことの豊かな楽しさ…。例えば「ふっくらとした夢」に登場するいくつものピンクッション、〈針を何度も刺して小さな穴のあいた布目から、髪の先がピンピンととび出していて、針仕事というものが陰気な手仕事だという気分にさせられた〉祖母の〈針立〉や〈紅色の華やかな縮緬をはぎ合わせた細工物〉で〈四人姉妹の末っ娘だった母の若死した二番目の姉が自分で作って使っていたという針さし〉、或いは「昔のミセス」の見開きのページ、68年10月号掲載の〈愛らしく優雅な細工のほどこされた「ビクトリア風なピンクッション」〉の数々のために、自分は『昔のミセス』を読み返してしまうのかもしれなかった。あの〈古布の赤いフランネル〉で作られ贈られたピンクッション、〈ふっくらと、まさしく、ふっくらと、しかもつつましくふくらんでいる愛しい「夢」〉としてのピンクッション。
 或いは「夢の中の町と水」の中の、いまにも小説へとなだれこんでしまいそうな〈「映画の町」〉の記憶(〈真夏の昼間、遮光カーテンのかかった高い位置にある窓から微かに吹いて来る風に混った便所の臭い、映写機がスクリーンに投げかける光の中にぼうっとかすむ煙草の煙と埃、何軒もの映画館――タイル張りの正面の装飾や、スチール写真を飾ったガラス張りのウインドーの手前の真鍮の柵、エンジやピンクのどっしりした重味のある布地なのに、ふんわりと軽そうでビーズを縫いとったドレスのようにキラキラと輝くカーテン〉…実際その魅惑と官能の光景を自分は何度となく金井美恵子の小説の中で生きて来たように思うのだ。)のために?原稿の書かれては二重線で消され行きつ戻りつ書き込まれ書き加えられて行く文字と、或いは〈私は原稿を書くことを愛しているのかもしれない。〉という言葉を読むために。自分は『昔のミセス』を読み返してしまうのかもしれなかった。 

 『小公女』の中の、貧しい下働きの少女が〈小さな不器用な作りのピンクッションをプレゼントする〉というエピソードをなぜか好きなのだと金井美恵子が語るとき、そのエピソードが何かを暗示するものでも示唆するものでもなく、ただ〈貧しい少女のつつましやかな自尊心ともいうべきエピソード〉であることを金井美恵子が語るとき、例えば〈肉屋のお嫁さんの人生について、何の疑問もなく、地下の狭い店内で揚げ物を揚げつづけるだけの人生、と決めつけて、そのうえで、それを考えるとその変化のない平板そのものの無限とも思える連続に、耐え難さを感じて暗くなるという、言ってみれば鈍感さと繊細さが混った紋切型の感慨〉(『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』)の前ではそのような少女の自尊心など簡単に見過ごされてしまうだろうし、実際〈森娘〉というか〈小さな膀胱に尿を溜めて苦しんでいる女の子〉とそのぱんぱんになった膀胱は誰にも気にもとめられなかったのだし(『カストロの尻』)、見過ごさない金井美恵子が、重箱のすみから書きつづける金井美恵子が、やっぱり自分は好きなのだ、と思う。