或いは「夢の中の町と水」の中の、いまにも小説へとなだれこんでしまいそうな〈「映画の町」〉の記憶(〈真夏の昼間、遮光カーテンのかかった高い位置にある窓から微かに吹いて来る風に混った便所の臭い、映写機がスクリーンに投げかける光の中にぼうっとかすむ煙草の煙と埃、何軒もの映画館――タイル張りの正面の装飾や、スチール写真を飾ったガラス張りのウインドーの手前の真鍮の柵、エンジやピンクのどっしりした重味のある布地なのに、ふんわりと軽そうでビーズを縫いとったドレスのようにキラキラと輝くカーテン〉…実際その魅惑と官能の光景を自分は何度となく金井美恵子の小説の中で生きて来たように思うのだ。)のために?原稿の書かれては二重線で消され行きつ戻りつ書き込まれ書き加えられて行く文字と、或いは〈私は原稿を書くことを愛しているのかもしれない。〉という言葉を読むために。自分は『昔のミセス』を読み返してしまうのかもしれなかった。
『小公女』の中の、貧しい下働きの少女が〈小さな不器用な作りのピンクッションをプレゼントする〉というエピソードをなぜか好きなのだと金井美恵子が語るとき、そのエピソードが何かを暗示するものでも示唆するものでもなく、ただ〈貧しい少女のつつましやかな自尊心ともいうべきエピソード〉であることを金井美恵子が語るとき、例えば〈肉屋のお嫁さんの人生について、何の疑問もなく、地下の狭い店内で揚げ物を揚げつづけるだけの人生、と決めつけて、そのうえで、それを考えるとその変化のない平板そのものの無限とも思える連続に、耐え難さを感じて暗くなるという、言ってみれば鈍感さと繊細さが混った紋切型の感慨〉(『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』)の前ではそのような少女の自尊心など簡単に見過ごされてしまうだろうし、実際〈森娘〉というか〈小さな膀胱に尿を溜めて苦しんでいる女の子〉とそのぱんぱんになった膀胱は誰にも気にもとめられなかったのだし(『カストロの尻』)、見過ごさない金井美恵子が、重箱のすみから書きつづける金井美恵子が、やっぱり自分は好きなのだ、と思う。