2022年12月21日水曜日

多田智満子『鏡のテオーリア』

鏡というものの呪力や迷宮性、驚きを媒介にしてまなざしと、輝きを通じて太陽とさえ結び付くこと。〈過剰な光の氾濫〉〈おびただしい鏡の反射し合う光の渦〉のあまりにも鮮烈な光景。眼の抱く欲望の、或いはもたらされる愉悦と恐怖の無際限さ。天上と冥府とを結ぶ通路としてのそれ。〈水晶球〉の幻想的なきらめき。そして水鏡と月という、極致めいた美しさまで…。数多ある魅惑の痕跡の内より詩人がすくい上げ、その言葉によって結ぶイメージはいずれも美しく、けれど水鏡と月こそが、何よりも誘惑的であるように感じられる。鏡が水の性をそなえていることの疑いようのなさ。…〈もしも水に映った月影がなく、天にひとつ月が存在するだけであったならば、月が真如の姿とはなりえなかったのではないかとさえ私は考える。水月があるからこそ天の月は真如の相でありえたのだ。言うならば、幻像があるからこそ、真実在が憶測されるのだ、と。〉
 鏡というもの、或いは顕微鏡や望遠鏡といった道具を手にした人間の、〈見るということの根源的な神話性を回復した人間〉の眼の、〈みずみずしい驚き〉…それら道具を介して見ることで世界は広がり行くのだし、想像力は無際限に引き出される。引き出された想像力の精華とでも言うべき眩惑的な光景と思索の数々。〈鏡面のきらめきを写しとった小さなメモの集積〉…解き明かすのではなく遊ぶのだ、多田智満子は。テーマの巨大さの内にて、観照の連鎖の終りのなさの内にて、軽やかに、優美に遊ぶのだ。けだし最良の導き手である。魅惑への、眩惑的な光景への。