2022年12月16日金曜日

保苅瑞穂『プルースト 読書の喜び 私の好きな名場面』

語られていることはおしなべて快楽である。手法をめぐる言葉さえ、それが伝えるのは快楽なのである。〈こうしてわれわれはプルーストの小説を読むことによって自分自身の読者にもなるわけで…〉そのようにして、引き出されるようにして生き直すようにして読む快楽。快楽を手がかりとして書く手の方に近寄って行く快楽。その快楽を手がかりとして作者の方へ、書く手の方へと限りなく近付こうと試みることの快楽。魅惑されることによってしか到達することの出来ない領域にて緻密に遊ぶ官能的な書物である。
〈いいかえると、それは、出来事に対する語り手のなまの意識が、かれの語りに肉声の響きをあたえたことによる効果であって…〉読むこと、特に訳すこと、読みつつ訳し訳しつつ読むことは、まさしく言葉と直面すること、書く指へと迫り、その痕跡を辿ること、言葉を選び取る指の、慄きと迷い、或いは喜びと決意に触れることなのだと実感する。〈この文章を引きたいために、わたしはここまで語ってきたような気さえする〉という言葉…魅惑された者が自らの辿らされてしまう運命を語る言葉として、印象に残る。読むことは想起すること、プルーストが夢幻を介して泉鏡花と結びついてしまうことでもあるのだった。例えばプルーストにそれを書かせたものとしてのネルヴァルの存在。ネルヴァルの感性への共感と言うもの。魅惑は連鎖する。その中途のけれど一つの結実として、本書があり、読むことだけが〈プルーストのためになし得ること〉なのだと宣言する言葉でかの幸福な思索が結ばれることの、喜びの豊饒さよ。

 全然関係はないのだけれども、〈本の世界に没頭〉していた子ども時分の記憶を語る言葉、本の外の世界を、本を読む自らの〈まわりに広がる世界〉を不思議なほど鮮やかに覚えていることを語る言葉を読んで、自分は最近その言葉を、石井桃子のエッセイ集の中でも読んだばかりであるな、と思い出す。〈そのとき、立ちどまって、あたりを見まわしたのが、私の生まれた町のどのへんだか、いまもちゃんとおぼえているのだから、記憶の仕組みというものは、おもしろいものである。〉…魅惑されることの不可思議さの中から書きはじめられた文章ほど自分を惹きつけるものはない。