2022年12月29日木曜日

『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』

若い時分の自分が佐多稲子や河野多惠子や大庭みな子や津島佑子を読んで来たことは、まったく正しかったと思う。彼女たちによって開かれて来たのだと、改めて思う。勿論共感できない発言は多いのだ。佐多稲子にせよ河野多惠子にせよ津島佑子にせよ大庭みな子などは特に。むしろ自分は彼女たちのその、性にまつわる発言の多くを幻想として、如何にそれが幻想に過ぎないか、可視化して暴き出して愚かしさを思い知らせて打ち砕いて解体してしまうような、壮大に書き直してしまうような小説にこそ慰撫されて来たのだと思うし、けれどだからと言って、彼女たちの小説を読んだ記憶を抜きにして、彼女たちの小説をなかったことにして本を読んで行くことは出来ないとも思うのだ。津島佑子の小説の中で自分は確かに、何度なく私を、私そのものを見た。みな啓蒙的であることを否定する。そうであるとするならば自分は彼女たちの小説によって、そこに書かれている苦しみや痛みや喜びによって、それまでの当然や常識を撹乱され揺るがされることの中から、本を読み始めたのではなかったかと思うのだ。 
そしてまた、彼女たちの小説を読んで来たことと同じくらい、今の自分が金井美恵子を読んでいることは正しいと思う。金井美恵子だけが幻想を語っていなかった。金井美恵子だけが幻想を根拠にしていなかった。金井美恵子の言葉だけが自分には明晰なものとして感じられた。この本の中で自分が最も惹かれるのは、語りや書くという行為をある一つの目的にそってのみ用いることの危険性を語る金井美恵子の言葉だ。それは「何故《小説》などというものを読むか」というテーマの中で、長井真理の『内省の構造』を引いて語っていた〈ある種の小説のつまらなさ〉、小説で語られることの一つ一つが何か特定の、結末や結論に奉仕してしまっていることのつまらなさ、物語の展開が、〈一つのテーマに完全に奉仕しながら、「私」から横道にそれることなく進んでいってしまう〉小説の退屈さを論じると同時に、〈もっと出来事の持つ多様性とか、横道にそれていく言葉自身の持っている力とか、それによって膨らんでいる、そういったものの総体みたいなものをどう読むかということが小説を読むこと〉だと語る言葉へとつながって行くものだ。金井美恵子の言葉だけがそのまま、読むことの快楽と結びついている。
総じて古さというものは当然感じるが、しかしインタビュアーの質問と語調から感じられる憤りは今なお解消されることなく続いている類のものだ。幾人かの発言の性にまつわる幻想もまた然り。〈女流〉はそもそも大前提としてだけれども、〈放談〉という用語に対しても金井美恵子は追記において指摘している。…しかしこうなるとつくづく森茉莉も読みたかったし冨岡多恵子も読みたかったし、ミーハーな意見で大変申し訳ないけれども〈画家である金井の姉〉が加わった後の金井姉妹とのおしゃべりが何なら一番読みたかったなあと思う。 

 石牟礼道子の〈「水俣」をずっとやり通せば、そりゃもう、世界のすべての苦悩と繋がるんじゃないかと。〉という言葉、津島佑子がしていたこともこれなのではないかと思う。津島佑子が書くことによってたどり着いたこともこれなのではないかと思う。『ナラ・レポート』や『笑いオオカミ』、『黄金の夢の歌』や『狩りの時代』を思い出しつつ。