2015年6月4日木曜日

河野多恵子『みいら採り猟奇譚』

ある夫婦が共に抱き続けた、至上の願望を実現させるまで。

それはそもそも、しっかりとした形を持たぬまま、夫の胸に、秘められていたものであった。若く、聡明な妻。自らの歪んだ思いを果たすため、夫は妻を、自らの趣向を汲み取り、応じる、最良のパートナーとして、ゆっくりと、ゆっくりと、育て上げて行く。夫の求めるまま、その教えに導かれるがまま、夫の欲する存在へと変貌を遂げる妻。互いの趣向がこの上なく合致した営みが生む悦びは、色濃く、深い。緩やかに遂げられた変貌の過程、倒錯的な要素を大いに含んだ二人の戯れは、淡々と続く日々の、その何気ない時間の中に、平然と紛れ込む。両者の出自、呼称、些細な癖、他意のない習慣…細かく、執拗とさえ思えるほど綿密に描かれた、夫婦の身辺と生活。だが彼等のそう言った陽の部分、他者の目に映る部分が、何一つ綻びのない、穏やかなものであるほど、それらを記す言葉が、濃密なものであるほど、その中に潜む夫婦の歪みは、より危うく、より官能的に、際立つ。平素の関係性と、戯れの趣向に属する部分の境目が、思い掛けず失われた瞬間、日常を象る言葉に隠れた、不意の刺激は妙に艶かしい。

苛烈さを増す愛の応酬。夫の胸に秘められていた思いは次第に、はっきりとした輪郭を与えられ、妻の胸中をも脅かすほどの、強く、切実な、ある一つの願いとなる。伴侶として自らが与えるべき悦楽。自らの内に残るはずの愉悦、訪れるであろう、喪失への悲しみ。夫の願いは、妻の心をも、陰鬱に、だがひどく甘やかに、覆って行く。自らの伴侶を至上の幸福へと導いた後、愛する者の願いを、自らにしか叶えることが出来ない願いを、自らの願いとして、夫婦二人の願いとして果たす、幸福に満たされた後の、静寂。
無音の薄闇。ただ紛れ、黙する他のない、澄み切った深淵。

二人が積み上げてきた時間の濃さ。厚さ。互いの趣向をゆっくりと合致させていくことで、最良のものとなった戯れ。あらゆる意図を排した空間における、仲睦まじい、健やかな夫婦の姿。生活の内部に潜み、不意に身を襲う、官能の瞬間。そのすべてが、二人の幸福へと、彼等を包む静寂へと、繋がっている。音もなく、声もなく、ただ静かに。茫然と、立ち尽くす。


みいら採り猟奇譚 (新潮文庫)
河野 多恵子
新潮社
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