2015年7月26日日曜日

高樹のぶ子『葉桜の季節』補足

《自分を変えることに喜びを見出し、「変えることの出来る自分」を誇りに思えばいいのだ》、《それは迎合ではなく、屈服でもなく、底力の証しであり、本当の意味での精神と肉体の強さの証明だという気がする》…
自分が高樹のぶ子の作品に惹かれる理由の中には、その言葉より無意識の内に感じ取っていた不遜さ…生において、自らの最良を選び続けるため、最適に生きるため、生の多くを楽しむために必要な不遜さに対する、密かな共鳴があるのではないか。
例えば自分は、人の言動をきっかけに自分が何らかの不利益を被ったとしても、自分の落ち度ばかりを悔やむ方であって、その相手に対する怒りを抱くことが少ない。しかしそれは、人への寛容さを示す類のものでは(全く)なく、他の誰のものでもない自分の人生が、自分以外の人の意図によって踏みにじられてしまう程度のものであってたまるかと言う自分本位の傲慢さ、無知故の厚かましから来るものだ。すべて自分のやり方次第と思うことが、自分にとっての最も生きやすい方法であると信じているために、そうしているに過ぎない。そう言った傲慢さや厚かましさを、人や物事の不都合さに苛まれている場面においてまで、何よりも自らの達成感や満足感に重きを置く姿勢に見出し、無自覚のまま、共鳴を抱いていたのではないか。
戦い抜くものの強さも好きだが、自らの生において、その最良を選び続けることや、豊かであること、楽しむことに対して真摯であるものの、あくまでも向き合い続ける自らの思いを重視するが故に、何らかの不自由さをもたらす他者や物事にさえ無関心な、どこまでも自分本位であるだけの厚かましさもまた(自分にも覚えがあるだけ、更に…)慕わしいと感じる。