素敵、と、言葉は一応浮かぶものの、しかし、大人しく素敵の内に収まってくれそうにもない。そんなスッキリとしたものではないように思える。抱いた好ましさでさえ、決して少なくはない量の反発や呆れ、時には嫌悪をも伴う、好意と言う一方向への思いだけで片付けることが出来ぬ類のものであったために。これは随分と根深く残り、随分と尾を引く類のものではないか。幾つもの複雑さを内包するとは言え、今あるそこは、幸福そのもの、平穏そのもの。それなのに、その生と香り、その色、その滋味の豊かさに、読めば読むほど落ち着かず、どきまぎとしてしまう。
清濁併せ呑む故に、審美眼も、自らにとっての快いを選ぶ目も、果ては嗅覚も鍛えられたに違いない。結果として幸福は堅固で、潤沢で、稀有な形のものへと、育まれて行った。選び抜いた果て、清濁どちらからも選び抜いた快さを集めた幸せであるのだから最早、手のつけようがないと言うか。敵わないと言うべきか。どきまぎとしつつも、好ましさを覚えてしまったからにはもう、素直に、その幸せを眺め続けるほかないような気がする。