2015年9月18日金曜日

佐藤亜紀『ミノタウロス』

”ぼく”を象るもの、”ぼく”を確かにするものはその後現れず、探されもせず、ずっと不確かなまま。それ以上にもそれ以下にもならない、なり得ないまま。酷く掴み難い距離を保つ語り口。不穏を秘めた冷淡さの中、語られる多くがその輪郭さえ与えられぬその中で、不気味なほど明瞭に響くもの…嫌悪、困惑、憤怒。悪虐に浸かり、退廃を狂奔し、それでも、落ち切ることには未だ不快さを捉えるために、人として振る舞い続ける…成り果てる事も、脱する事も、突き抜ける事もしない、し得ない曖昧さだけが、明瞭なものであるかのよう。
それは不愉快で、直視し難い曖昧さ。だが、何一つ振りかざす事なく迫り、淡々と巡り…黒々とわだかまる不快感に気づき、掬い上げた時にはもう、蝕まれ、抉られ、掻き回され、最早目を離す事も出来ない。成り果てたもの、自身が象るただ一つのそれを、剥き出しにしたまま生きるものを見る際の、恐れや微かな羨望を含む不愉快さとは別種の、近しい(無自覚とは言え、違和感なく受け入れることが出来てしまうほどに)が故に抱く類の、後ろ暗い嫌悪を伴う不愉快さ。
鮮やかな配置。現れ、消え、それ以上でもそれ以下でもない、役目を果たす。深く後を残すもの、何一つ残さぬことで、その価値を発揮するもの。果てがなく、不毛であることこそが、疲弊した身をじゅくじゅくと腐らせて行く。死によってさえどこにも行く事が出来ない、死でさえどこへも連れ出しはしない…澱んだ閉塞を強烈に示す結末、鮮やかなまでに不愉快で、虚しくて、恐ろしい。



ミノタウロス (講談社文庫)
佐藤 亜紀
講談社
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