2015年10月6日火曜日

皆川博子『冬の旅人 上』

濃密な愉悦を呼び起こす美への傾倒。遠い日の鮮烈な記憶、忘れ難い恍惚は今なお、その身に息づいている。ただ再会の時だけを望み、自身の手によって表す事だけを望み、追い求め、彷徨う。美しく、残酷なまでに美しく、無垢であるものの相貌に、凄艶なる魔の面影を重ね。
旅路は厳しく、陰惨な苦しみに満ちたもの。恥辱、侮蔑、悪意…手の平に乗せ、見つめた魂には、幾つもの傷が刻み込まれている。時の流れにさえ癒し得ぬ痛み、遠ざかる悦び、歩むべき道を見失い、虚ろに沈む心。だが、懐かしき静寂を見つけ、そこに佇む事で、その静謐の快さに心傾ける事で、今一度進み始めようと動く自らに気づいた時、潜んでいた思いもまた、密やかに息を吹き返す。
それは背徳感をまとう憧憬。愛すべきものを愛せぬ事、潔癖である事、己に備わる酷薄さを厭わぬ事…忌まわしい過去を呼び覚ます行為への嫌悪と、思いを裏切り溢れ出す悦びへの戸惑い…解け難い矛盾と共に抱く思慕であるが故に。暗さを帯びたまま、それでも、自身の救いとなるほどに増して行くその濃さ。
痛ましいとも、艶かしいとも思う。矛盾に惑う素朴さを捨て切れぬまま、苦痛の中にあってさえ、それを思う事で、自身を守り切る事が出来るほどのものを持つ事に対し。それが武器となるほどの特別さを持たぬまま、愉悦を追い求める過酷な旅を続ける事に対し。難儀な、けれどそれ故に魅惑的であるとも感じる。


冬の旅人〈上〉 (講談社文庫)
皆川 博子
講談社
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