倦怠を。苦しみを。痛みを。苛立ちを。煩わしさを。匂いを。柔らかさを。甘やかさを。愉悦を。情欲を。曖昧さを。危うさを。今一度、幾度となく感じ。今一度、幾度となく体験し。私は私を生き直しているのだ、と思う。遭遇した、或いは自ら望み、選んだ何もかもを自分の記憶の内に組み込みながら。私は今、私を生き直しているのだ、と思う。
生き直すと言う至福。彷徨い続け、繰り返し続け、再び出会い続けると言う至福。それは金井美恵子の言葉を読む事によってのみ、繊細に、繊細に、間隙なく緻密に、間隙さえ緻密に編み込まれた言葉を読む事によってのみ到達し得る鮮烈な。決して生易しいものではない喜び。生半可なものではない喜び。
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自分の内に、物語は無数に埋もれている。情景は無数に埋もれている。見覚えのない、心当たりのない、物語も、情景も、無数に埋もれている。思い出してなお、見覚えのなさに、心当たりのなさに困惑する類の。見覚えがなくとも、心当たりがなくとも、自分の内に埋もれていた事だけは疑いようがなく。それ故に困惑する類の。
埋もれてしまった物語を、情景を、見知らぬ彼等を引き出される喜びを味わうため、自分は物語を、情景を取り込み、蓄え、忘れ続ける。引き出されると言う喜び、読む事によってのみ得られる、代替不可能なその喜びを体感するため。自分は読み続ける。読む事こそが自分にとっては唯一の手段であるから。自分は金井美恵子を読み続ける。
講談社 (2014-12-12)
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