2017年11月27日月曜日

富岡多恵子『水上庭園』

手紙の無垢な饒舌さ。愛を語り、願望を語り。今の退屈さを語り。旅の、漂泊の素晴らしさを語り。健気に返事を乞う。無垢で饒舌な手紙。手紙の量だけ、言葉がその質量を増せば増した分だけ、現実から離れて行く。手紙の強さ。ぎこちなく噛み合わない現実の再会に比べ。かつての手紙はあまりにも強く、重い。
語り手がその手紙に応える事の、その強さ、重さに応じる事の不可能さ。当然の不可能さであり、当然の空白。再会の方がむしろ、幻のよう。現実の噛み合わなさ、ぎこちなさの中では、語り手の理不尽な苛立ちだけが唯一生々しく、艶っぽい。饒舌を飲み込み、諦め、秘する、苛立ちだけが、唯一。手紙の質量に対抗し得るもの。
二十年前にするはずであった漂泊の、代替とも言うべき旅を実現させ。けれど結局語り手は、「未遂の恋」を消化しただけ。自分自身の為に。現実を離れ、自らを治す為の時間を必要とした時、手紙の熱情を、かつて演じ損ねた物語を、うってつけとばかり、利用しただけ。飲み込んだ饒舌を解放し。それもすべてではなく、一部分だけ。物語を終える為に必要な分だけ解放し。何一つ伝えようとする事のないまま、終わらせ。哀しく、大切に、消費しただけ。
異国の青年。愛を、夢想を語る、無垢で強い手紙の束。未遂の恋。自分自身を治す為に、現実を離れたいと望む時、それは最も有効な、うってつけの物語であり、非日常であり…。自らは癒やさず。相手が癒える時を待ち。完遂しようとする。甘さなどなかった。温かくもなかった。ただ切実であり、有効であり、身勝手ではあるけれど、かすかに優しく、穏やかで、自然で、決して醜いものではなかった。綺麗でさえあった。それ自体が物語となった旅路の事。



水上庭園 (シリーズ「物語の誕生」)
富岡 多恵子
岩波書店
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