2016年8月1日月曜日

須賀敦子『ミラノ 霧の風景』

幾度となく向き合い続けたのかと思う。わかるまで。違和感の正体を。好ましさの在り処を。見極めるまで。それが自分の今を形作るものであるのかどうか。頷けるまで。話せるまで。幾度となく確かめ続けたのかと思う。その味を。その舌触りを。その匂いを。その喉越しを。そのよしあしを。その距離を。その近さを。その遠さを。その縮まらなさを。その変化を。その新しさを。その意外さを。或いはその変わらなさを。
記憶と言うにはあまりにも自在であり、鮮やかな情景。抜け出したのだと思う。記憶と言う言葉の囲いを。それ自体が。持ち主の生真面目な咀嚼と反芻の果てに。そして生き始めたのだと思う。不自由な時の流れを離れ。

須賀敦子の本は割と読んでいる方だけれど、自分はそのエッセイを、並べたり繋げたりする事が出来ない。何かこう、それぞれが違う時の流れの中にあるような気がして。また一つずつ取り出す事が出来ない。そのどれもが終わりを持たず、区切りを持たず、未だ続いているような気がして。現実の時間を離れ。自由に。自由であるが故にしばしば意外な重なり合い方をし。意外な広がり方を見せ。意外な残り方をする。