小沼丹の文章がとても好きなのだけれども。そのよさを説明する事は、それこそ雲を掴むような行為であると、いつも思う。言葉にし難く、また安易な言葉におさめてしまいたくもない、と言う感覚。こうなればもう、引用するほかない。自分には、引用するほか術がない。
〈井伏さんは、たいへん難しい顔をして僕を見た。それから、
ーー魚は人を見る眼があるんだ。君が見てると魚が寄って来ないんだ。どうだ、判つたらう?
と云はれた。そんな莫迦な話はないのであって、いまだに僕は「判つた」とは思へない。〉
〈つと立たれた先生は、将棋盤を私の前において、云はれた。 「ちよつとだけやろう。ちよつとだけだよ。僕は今日原稿を書かなくちやならないんだ。」〉
〈私が勝つた。さて、失礼いたします、と両手をついて膝を揃へて先生を見ると、先生の駒はきちんと並んで次の勝負を待つてゐる。そして、いまの勝負はあそこが悪かつたね、とか云つて私の始めないのを訝つておいでのやうであつた。〉
〈「原稿なんて、いいんだ。」 先生は乱棒なことを云ひ出された。〉
…やはりふうわりと可笑しい。
楽しさも、親しさも、慕わしさも、自然に漂っていて、読めばじんわりと沁み込んで来る。力が抜け、いい塩梅になる。小沼丹の文章がもっと読みたくなる。