匂いや色や、形、手触り、空気、癖や特徴、表情や印象や感じ。それこそ何でもかんでも、子ども時分は吸収していたなあと思う。そう言った、自分がかつて闇雲に吸収してしまっていたもの達の事を、よく思い出す。そうやってごちゃまぜに、わける事なく、一緒くたにして、取捨選択もせずに吸収してしまっていた時分の事を、よく思い出す。それは今の自分を持ったまま、子ども時分を生き直すかのよう。
とうに忘れ、薄れ行き、今はもう、埋もれてしまっていたもの達。けれど時には不意に思い出したり、再会したりする事もあって。子ども時分はわからなかった事が、今はわかる訳で。その都度自分は懐かしがったり、ガッカリしたり、驚いたり、呆れたりする訳で。記憶というものが、反芻すればするだけ、言葉にすればするだけ、鮮やかさを増し、克明さを増し、原型を失って行くものである事を実感する訳で。しかも覚え続けているのは大体変な事ばかり。細かな事ばかり。大人達にとって、都合の悪い事ばかり。
あの人が例の異母妹であるとか。後添いであるとか。この人は事故で手の指を何本か失くしたとか。一度蒸発した事があるとか。けれど結局は戻って来たとか。或いは自分の父親の、何となく悪目立ちする若さの事であるとか。そう言った家族の事情、家族内でのみ通じる特別な物語、母や母の姉達のする噂話で知ったような事どもを思い出す。自分の所にもあって、そこここにあって、ありふれている、うんざりする程によく知っている、この先も散々見たり読んだり聞いたりするに違いない類の事どもを。
自分のいる場所の危うさと言うか、自分の当たり前の、意外な程の脆さ、不安定さに気付いた瞬間の、子ども時分の事ゆえ勿論明確に理解出来た訳ではないのだけれど、不明確なままでありながらも何となくわかった瞬間の、察する事が出来た瞬間の、心細さであるとか、不安感であるとか。曖昧に確信した事の、その重要さに気付いた瞬間の狼狽…。
自分は何度、その匂いと出会った事だろうと思う。その色、その気怠さ、その目眩、その不安、その不穏さ、そのくだらなさ、その艶やかさと、自分は何度、遭遇した事だろうと思う。あちらこちらで。本の中で。物語の中で。見聞きした話の中で。金井美恵子の本の中で。何度も出会い、何度も生き直し、何度でも自分は吸収する…。
自分のものである記憶や情景。自分ではない、別の誰かのものであり、かつて何度も見聞きした為に、或いは読む事で、自分として、自分ではない、別の誰かとして、無数の私として、何度も生きた為に、紛れ込み、もつれ合い、自分のものとも化した記憶や情景。馴染み深く、よく見知ったそれら、再び出会い、引き出される喜び…。
自分にとって読む喜びは、金井美恵子によって引き出されて行く無尽蔵のものであり、緻密で繊細で強靭なその言葉達によって、記憶を、情景を、感覚を、引き出されて行く事であり、また無数の私として、無数の記憶を、情景を、感覚を、生き直す事であり、唯一無二のものであると、改めて思う。心底思う。