2018年3月17日土曜日

多和田葉子『飛魂』

自分の見知ったもの達が、違う名前をしている。常とは異なる姿をしている。よく見知った文字たちの、見慣れぬ連なり。文字を見れば、それがどう言ったものであるか、わかる。伝わって来る。驚くほど強烈に、存外なほど生々しく。その重さ、質量、感触、温度、匂い、風合い、容姿、特性。文字をなぞれば、一瞬にして、思い浮かぶ。人、もの、それ自体を、そのものを、わかる。受け入れる。すぐに馴染む。染み入り、広がる。なんと不可思議な。
それは明確さであるとか、明瞭さであるとか言った類のものとは無縁のわかり方。理解するのではなく、何かこう、ぼんやりと、そのものの全体を感じ、納得する、と言うようなわかり方。何かこう、根が深くて、そのもの達が、自分の一部になってしまうかのような、自分の内に収まり、溶けていってしまうかのような、ひどく親密なわかり方。
物事や行為の、原始であるとか、原生と言った感じがする。根幹と言った感じがする。研磨される前の状態。生々しく、強烈な、磨かれてもおらず、削られてもおらず、隠されてもおらず、まとめられてもおらず、定められてもおらず、姿そのものがそのもの自体を表現していると言う、それ故に強烈である状態。その奔放さや自在さ、キリのなさ、途方のなさ、突拍子のなさ、囚われなさを思えば。

けれど自分は何故わかるのだろうか。文字を見て、それが表現するものを。何故思い浮かべる事が出来るのだろう。見慣れぬ連なりであるはずなのに。音で、だろうか。形で、だろうか。その文字に備わる、意味と言うもので、だろうか。或いはそれらすべてで、だろうか。考えるよりも先に、自分はわかってしまう。


飛魂 (講談社文芸文庫)
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多和田 葉子
講談社
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