2022年3月9日水曜日

石井桃子『幼ものがたり』

幼い日々の、それも〈ほんとうの日常茶飯事のほうが多い〉と言う記憶の、細々とつぶさで濃密な、その細部を読む楽しさ。人や家やものや、遊びや習慣や季節の行事や祖父直伝の昔話や、暮しの中にあって、特別なこととしてではなく、ほんとうの日常茶飯のこととして存在していて、日々、見たり聞いたりしゃべったり訪れたり、触れ合ったりしていたそれらのこと、自らの身体(目や耳や鼻や口や、手や足や肌)とも当然、直に結び付いていて、親密な。教訓としてではなく、何かを論じたり、判断したり、示唆するものとしてでもなく、それは常に体験として、確かに生きた時間の鮮やかな断片として、豊かに示され続ける。〈…けれども、きのうのことのように私の目にはっきりうかぶのは、その日の陽光をあびたおまっちゃんの家の縁先と、そこにうずくまっていたねこと、「あたしはがまんしている」と姉に訴えた私自身と、竹箒をふるったおじいさんと、縁の下の板のあいだに走りこんだねずみなのである。〉 
自らの記憶を語っていながら、感傷的にならず、常にそれを体験として読む者に差し出すことを可能にする、その語り口の的確さと客観性。〈私には、威勢よく指図する祖父や、みんなが、ばっさばっさ、枝を切っていくありさまを見ている自分が、もう小学二、三年の年ごろのように思えるのだが、そこに元気な祖父がいたところをみると、大きくとも四歳数ヵ月であったのだ。〉…時間が不思議に転倒したままの鮮やかさで、記憶を語ること。〈あのときの情景を、かなりよくおぼえているのに、写真を撮る間もじっとしていられないほど幼かったのかとおどろき、写真屋さんが、なぜ私にだけ、あんなに熱心に話しかけたのか、そのわけもわかった。〉…そして常に具体的な細部をとおして、記憶を語ること。例えば〈ひな壇の下のほうの段にならぶおもちゃ〉である〈小さい小さい七輪、それにのせる小さい小さい金網。小さいセトモノの金魚ー白や、ぶちや、真っ赤なのが何びきか。〉〈それから、木彫りの茶道具。その他たくさんの、古びた、小さな世帯道具や動物類〉と言った、小さく、具体的な細部…。極めて個人的で、その人だけのものであるような類のことであるにも関わらず、石井桃子の語るそれは、読む者に向かって、豊かに開かれている、と思う。読む者にとっての、そう言った、決して特別なものではない、もしかしたら間違っているのかもしれない、けれども奇妙に鮮やかな、体験の記憶を呼び覚まし、また読むことの喜びへと、柔らかに語られる言葉に触れることの心地よさへと、誘うように、豊かに開かれている。

幼い石井桃子と「お話」との最初の接触、〈祖父から直接、昔話を聞かされ〉〈じぶんでも妹たちに話して聞かせるたのしみをおぼえた〉文姉のはなす、「おししのくびはなぜあかい」にせよ、〈お湯にはいるとき、道をゆくとき、よくうたい〉、教えてもらった「たにしどの、たにしどの」の問答歌にせよ、そこにはお話を聞くものの楽しさと、お話を話して聞かせるものの楽しさの、両方が存在している訳で。石井桃子は、その両方の楽しさを知る人なのだ。石井桃子の語るお話が、豊かに開かれていることは、なんと言うか、当然のことなのだ。