2022年7月21日木曜日

金井美恵子『添寝の悪夢 午睡の夢』雑感メモ①

〈わたしは、現実をやりすごして、夢から夢の中に身をすべりこませつづけ、夢の霧粒で身体に空虚な肉をふやしつづけ、デブデブの猫みたいに太りたいと思う。〉…「エオンタ」の、あの童女のような、〈《少女時代》の亡霊〉のような女性を思い出す。彼女をおおう〈薔薇色の肉〉、彼女を太らせた、肥大化させたものの正体もまた、〈夢の霧粒〉ではなかったか。甘やかな幼年時の夢に、夢の時間にとどまり続けること、誰からも、自らからさえも、懲罰されることなく、追われることなく、待つことの夢にのみ身を浸し続け、〈薔薇色の肉〉におおわれた彼女のこと。欠落より書き始めることのなかった者の姿として。書き始めることよりも〈夢から夢の中に身をすべりこませ〉つづけることを選択した者の姿として。思い出される。 〈断続的な夢を見つづけ、しまいには夢さえもない眠りについて夢を見ながら眠っていたい。〉…この〈眠りに対する願望〉、〈幼少期を通じての唯一最大の肉体的な欲望〉…けれど〈わたし〉は書き続けるだろう。書き始め続けるだろう。この〈異常なまでの休息の願望〉を抱くとともに〈書くことと夢見ることの奇妙な相似性〉に魅了されてもいる、その合わせ鏡のような二つのことに対して常に敏感である作家は。肉体の抱く欲望に反して、欲望に反することの苦痛ごと、作家はその右手を以って幾度となく書き始めるし、書き続けるだろう。 

 〈この右手のつかみ取りあるいは触れるものの感覚、あるいは痙攣といってもよい手の動き(手に限らず痙攣的なすべての身体の動きと感覚)が開示して行くものは、世界と私との関係である。世界と私の関係を、触れるものすべてに打ち立てなければならない。〉〈そして、この現実の中で今わたしは鉛筆を持って書いている。この苦痛はわたしの動いている右手からはじまり、右手の動きは常に人間の存在の根源的な意味に向っているということは不思議なことだ。〉 作家の手の緊張。作家の肉体の緊張。書いている、今まさに書きつつある、〈書くということの官能と怖れ〉を感じ尽くそうとしている作家の。書くことのはじまりを問うことの迷宮性、〈〈書くこと自体の持つ避け難さ〉或いは〈遂に終ることがないという未完性〉によって、幾度となくその卵性の問いへと、書くことの方へと立ち戻されてしまう作家の。緊張を読むということ。読むことの中から、読むことによって、なお一層広がる欠如と空白、それらによってはじまる、書くということ、〈欠如の迷宮に踏み迷うこと〉である書くことの、その只中にある、その官能と怖れのすべての只中にあって、今まさに実行している、書いている、書きつつある作家の手の、肉体の、緊張を読むということ。書く手、その肉体の、痙攣や震えや躓きや慄き、よろこびと言ったすべてを読む。自らもまた肉体をもって、生きるようにして、敏感に、見逃してしまうことなく、限りなく接近して、まさしく身をもって知るような、読み方をすること。快楽的に読むとは、そういうことなのだと思う。持続され続ける緊張、書くことにまつわる謎と情熱のすべて、はじまりを問うことを含む、読むことと書くことの迷宮性そのものであるかのような小説を、どう読むのかと言うこと。