或いは無邪気について。〈…天罰は、その無邪気さに対して下るはずだ。無邪気を転倒させなければなるまい、とわたしは考えてみる。〉〈こうしたラチもない不安にとりつかれると、まず、書くということが呪わしくなって来るようだ。なぜならば、書くということにかかずらわっている以上、いつまでたっても、わたしは自分の子供っぽい傲慢さを捨てることが出来そうもないような気がして来る。そしてこの種の傲慢さによってこそ、わたしは書けるのかもしれないのに…〉
無邪気は常に追放されるものだ。持ち続ければやがて悪として、罰せられるべきもの。破滅するほかのないもの。無邪気のままであり続けるためには、その身体ごと夢から夢へと逃げ込み続けなくてはならない。そのような無邪気というものを書き続けていた金井美恵子が森茉莉の『甘い蜜の部屋』を称揚することの当然さ。モイラの破滅によって終わるのではない、無垢の勝利によって終わるかの小説の、モイラの〈幼年の無垢の悪と美〉を金井美恵子が甘やかな言葉をもって愛することは、当然のことだ。〈観念的でありながら観念に殉ずることをまぬがれている想像力によってのみ可能な無垢の勝利を森茉莉は手にしたのである。無垢が永遠に住むべき場所をあたえたということだ。〉とさえ語ってみせることは。
メモのメモ。
また或いは…この時分の金井美恵子の小説における"眠り"や"夢見る"ことと、『小春日和』における桃子のそれの、まるで異なることについて。桃子は決して眠りへは落ちて行かないし、それどころか、自ら見る夢を語ることさえないのだ。夢見たことを語るなんてそれはまた別の話だと言い、そのずっと後には、夢見るものなんて何もないとさえ言うのだ。眠りはいつからそうなったのだろうと思うし、自分のような単純な読者は、そんな桃ちゃんの名前が桃子であることと、何かこう、色々結びつけて考えてしまいたくなる。