2022年7月21日木曜日

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』

沢山の、雑多な、過剰で限定的で、具体的な、物、人間、肉体、表情、言葉、食物や飲料、建物や土地、狭さや暗さ、不潔さや汚さ、貧しさや華やかさ、偏見や決まり、醜さや美、汚穢や自然、笑いや嘆き、血や涙や体液や、暴力や病、狡さや裏切りや後悔や欲望や楽しさや死。確かに存在する生の一部分、一幕であり断片であり、かつて確かに現実であったそれら。かつてのすべて、生そのものでもあったそれら。互いに離れてではなく、バラバラにではなく、区別なく、秩序なく、一緒くたになって、混ざり合って、浸食し合って、ひしめき合うようにして存在するそれら。どこまでも着いて来る。物語になったからと言って、それらは消えはしない。変容はするけれども、まったく別のものになってしまうことはない。どこまで行っても、それらはそれらのまま、そこにあり続ける。 
書くことの、書かれたことの、書く指の情熱と取捨選択の、必然性のようなもの。当然の情熱と選択によって、小説は書かれたように思える。その指によって書かれたすべてが、その指の持ち主の、確かに生きた場所、生きた空間、生きたものであると言うこと。そこで確かに、そのようにして確かに、生きていた、生きて来たのだと言うこと。かつて確かに見て、触れて、口にして、聞いて、生きた、生と死の一部分であるのだと言うこと。圧倒される。打ちのめされる。書かれていることの、例えば痛みや過酷さや悲惨さや抜け出し難さにではなく、書く指の情熱と取捨選択の必然性が、作者が自らの書くそこで確かに、そのようにして確かに、かつて生きて、生きて来たのだと言うことを、強靭に裏付け、鮮やかに物語ることにこそ、自分は圧倒される。
〈ベラクルスの教区教会や、椰子の木や、月明かりのランタンや、踊り手たちのぴかぴかの靴のあいだをうろつく犬や猫…〉〈アリゾナの教室一つきりの小学校や、アンデスでスキーしたときの空〉…或いは日の光、〈今はグアダルーペの聖母像の上、今は裸婦のデッサン画の上、鏡、木彫りのジュエリーボックス、〈フラカ〉の香水のボトルのきらめき。〉…確かに生きた空間であり、生の一部分であるそれら。