2022年9月24日土曜日

澁澤龍彦『うつろ舟』

物語は夜に属する。潤沢に妖気を湛えた夜にこそ。あらゆる夢幻を、異常を、残忍さを許し、魅惑へと変えてしまう、夜の鷹揚さと深遠さにこそ、物語は属する。みな、抗うこともなしに、達する。みな、定められていたことであるかのように、交わる。善も悪もなく。溢れる欲望の緩慢さ、無防備に己が身を晒して、高まり行くまま、ただ欲望にのみ殉ずるような行為の、存外なほどの清廉さ。その終わりはむしろ、呆気ないほどだ。濁りも、澱みも、そこには何も残りはしない。そこからはひとまず消え去る。あの濃密な快楽さえ、跡形もありはしない。
物語はころころと玉のようにこぼれ出で、掴み取るその繊細な手の持ち主によって、まるで愛でるようにして、遊ぶようにして語られる。夢幻との戯れ。まず声がするのだ。夢幻からの声が。夢幻からの語りが。聞こえた者だけが、行ける。或いは、聞こえてしまったのであれば、行かなくてはならないのだ。語り手の声と、語り手の先で、語り手を語ることへと向かわせる夢幻の声。陶酔。魅惑されるということ。誘われるままに、欲望を膨張させること。魅惑されることの当然さのままに、語り始めること、語り直すこと。夢幻に遊び、遊ぶことの快楽のままに、夢幻を語り継ぐこと。逃れようのない声、逃れようなどとは思いさえもしないその声の持つ親密さと魔性。