2023年7月2日日曜日

今村夏子『むらさきのスカートの女』

今村夏子のいつもの〈わたし〉、あの〈わたし〉であり、この〈わたし〉であり、いつもの〈わたし〉の語り。いつもよりも見えにくい。〈むらさきのスカートの女〉を見るための〈わたし〉、今回はそのために生きている、けれど多分、いつもの〈わたし〉。自分はそれを、今村夏子の〈わたし〉の語りと言葉をいつも不穏と言ってしまいがちなのだけれども、きっと、〈わたし〉にとっては決して不穏なことではないのだ。〈わたし〉をいつもの〈わたし〉にしてしまう選択も行動も考え方も、〈わたし〉にとっては必然的なことなのだ。ずれも、伝わらなさも、惨めさみたいなものも、平易に語られていつもどうすればよいのか考えてしまう。疑わしさも、信用できなさも、平易に語るものだからどんどん受け入れてしまって、気がついた時にはもうどうすることも出来なくなっている。それはいつだって明瞭なことなのだ。〈わたし〉はただ〈わたし〉の当然で明瞭な秘密や困りごとや疑問や楽しみしか語りはしない。見えたり見えなかったりするけれども確かに居りはする〈わたし〉、今村夏子は次なにを書くのだろうなあ、と、読むたび思う。