2016年5月31日火曜日

岡本かの子雑感

岡本かの子の「雛妓」や「花は勁し」などを読むと、何かこう、漲る。熱く、激しく、しつこく、力強いものが。生の歓びであるとか、多くの苦しみさえ糧に、円熟した心の豊艶な輝きであるとか、多くを食し、蓄え、自分自身の力と変える姿の美しさであるとか、その色合いや香りの濃厚さであるとか。漲る。自分は岡本かの子と言うひとが好きなのだと思う。
大庭みな子を読んでいる時。岡本かの子を連想する瞬間がある。似ていると時折感じる。大庭みな子の、特に後期の作品。達したもの。清濁併せ呑み、すべてを咀嚼し終え、円熟へと。その性、性愛をも含め。豊艶であり、潤沢。
一筋縄ではいかない事、複雑である事、そして(濁りをも受け入れたために)澄み切ってはいない事…大庭みな子を読む時、その最大の魅力であると感じる事。凄みとも言うべき魅力。けれど岡本かの子は違う。淀みも、濁りも最早ない。岡本かの子はそこに、清澄である事、が加わるように思う。トロリとしていて、濃厚である事は確か。それなのに、澄んでいる。甘く、柔らかく、澄んでいる。触れれば快く、漲るよう。愛(肯定と言うか、寛容さと言うか、鷹揚さと言うか)を引き出されるよう。