2022年3月21日月曜日

金井美恵子『目白雑録 ひびのあれこれ』

〈夕食の支度が出来るまで、最近、筑摩から文庫版の出た(なぜ?今?)ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を本棚(なぜか、二冊あった)から取り出してパラパラめくっていたら、70ミリ映画のオリオン座(高崎の映画館である)の切符がはさまっていて、『ロシュフォールの恋人たち』とオードリーの『いつも二人で』の二本だてなのだった。〉〈おそらく、何か別の本のシオリにしていた切符が出て来て、七年も前に見たのか、と若かった頃の私が驚いて、当時読みかけだった『シルトの岸辺』にはさんだのだろう。〉切符は67年、『シルトの岸辺』は74年(690円、集英社刊)のもの。 〈ふとここに書きうつしてみたい気持になるような流麗で調子の高い描写と比喩の連続〉〈私は後年の短篇『半島』がグラックの小説の中では一番好きだ。〉と言ったような、金井美恵子の、ジュリアン・グラックに対する印象はもちろんなのだけれども、それよりも何よりも、『シルトの岸辺』にはさんであった切符から、67年へ、74年へ、記憶は遡り、〈七年も前に見たのか、と若かった頃の私が驚いて〉読みかけだった『シルトの岸辺』にはさんだのだろうと思う、その記憶の入れ子めいてもいる出来事(それを『目白雑録』=ひびのあれこれに日常茶飯の細かな一つとしてのみ語る言葉をも含め)の方を、自分は愛する。 
 とにかくしょっちゅう風邪をひいている金井美恵子。夏風邪もひくし、〈スチームバギーという高温蒸気の噴出する掃除機でキッチンやらバス・ルームも徹底的(ほぼ)に掃除したせいで疲れて風邪をひいて〉しまったりもする。細々とした暮しのトラブル(未満も含め)も多く、雨漏りや通信販売を使用したイヤガラセや、「急性腸炎日記」など、エアコン故障→ガス給湯機故障→パソコンのキーボード故障、からの風邪に腸炎…。〈三日間は寝たままで、ほとんど何も食べず、その後も一週間は三食おかゆという生活が続いてひどく消耗したのだった。〉〈去年も同じようなことを書いたような気がして、気も滅入る…。なんという繰りかえし。なんという変化のなさ。〉
例えば『待つこと、忘れること?』の、〈「エッセイ」として、充分に計算したうえで、楽しく書いた文章〉に、〈私小説〉という印象を持ってしまう評者に鼻白んだり、「噂の真相」の「三角関係の過去」を伝える記事を、〈小説家として、というほどオーバーなことではなく、ごく常識的な普通の、論理的でさえもない物の考え方で〉検証してみたりと、そこここで目にし耳にするピント外れの言説の数々を〈嫌味につつきまわす〉ことを含め、まさしくひびのあれこれである。

そしてトラーちゃん。〈トラーのずっしりとした重さが私の片脚にかかっていて、深い溜息のような寝息がフトン越しに伝わってくるのを感じながら、ふわりのことをつい考えてしまうのだ。〉〈私の部屋の入口には、老婦人に作ってもらった丈の長い藍染め木綿のノレンがかかっていて、トラーが部屋に入って来る時には、ピンと立てたおっぽがノレンに触れ、ふわりとごく軽く揺れ動くのだ。〉…そのずっと先に書かれることになる、「たにし亭の暖簾」というエッセイのことを、2022年現在の読者である自分は思い出すことも出来る。語りなおされる"ふわり"と爪の音。