〈月とは、いつでもだしぬけに空にかかるもの。定期的に繰り返されているのにもかかわらず、ある唐突さでシューシュー音をたてながら上昇して、空に吊される、《記憶》だ。〉…月はしばしば〈シューシュー音をたて〉てのぼる。深沢七郎と分かち難く結び付いて。映画と小説と、魅惑は横断して結び付く。魅惑自体と、それを語るものである言葉の水性。わきあがりくずれる水。浸透するもの。侵入するもの。肉体的な快楽として直接、肌に触れるもの。やがてなだれこむもの。例えばしたたる蜜としてのそれであるとか、様々な粘着度の液体と水。
〈いずれにせよ、フィルムのなかの肉体は、物語というものの持つ心理的表現などでゆがんでいない時が一番美しいのに決っている。〉…どのような肉体に魅惑されるのかと言うこと。金井美恵子は一貫してそうである気がする。その心理ではなく、〈虚ろな肉体〉こそが常に美しい。小説の中でも勿論、〈虚ろさによってむしろ確実に〉〈存在〉してさえいた肉体を書いていたはずだし。
〈ルノワールの『ピクニック』が美しいのは、官能にめざめた若い娘の心理ではなく、官能そのものをフィルムに定着してしまったから〉…と言う言葉を読んで、自分は何故か、武田百合子の文章を連想してしまう。偶景の、細かな、けれども確実に〈恋愛〉そのものである瞬間をとらえた文章として、武田百合子の文章の、あの甘栗屋のおじさんの指を掴んで説明するおばさんのしぐさを、不思議と思い出す。金井美恵子が、自らがいつも書きたいと思っている偶景そのものであると語っていたそれ。(…確認のために金井美恵子の『日日雑記』評を読み返したら、このしぐさの引用のあと、〈ジャン・ルノワールの映画にでもありそうなこうした「恋愛」について、もっと読みたくなる〉と書いてあった。然もありなん、自分の連想は、むしろ当然の連想だったのだ。)
これは本当に、快楽と、快楽的な体験について語るもので、言葉そのものが魅惑と化すほどに、豊かで密やかで、この上なく官能的な書物だ、と確信すると同時に、思い出したのは、確か、ルノワールの映画を見ることの快楽を知る自分がポルノ小説を書く必要などあるはずもないのだ、みたいなことを書いていた金井美恵子のエッセイ(どこぞの匿名のポルノ小説の作者の正体として噂されていたらしい)があったような気がする、ということで、かのエッセイの所在を探し当て、読み返す。なるほど、『本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ』で読んだのだった。〈…そうした、官能的経験のさめやらぬまま、ルノワール論を書いてしまう者にとっては、とてもポルノ小説を書いてしまう余裕など、ありはしない。〉(「『ボヴァリー夫人』と私」…間違ってはいないが、ルノワールの前にフローベールだった。ルノワールを見ることの前にフローベールを読むことがあった。)