2022年4月17日日曜日

金井美恵子『映画、柔らかい肌』雑感メモ②

〈映写機から光がスクリーンに向って出てて、そこのところだけ埃が舞ってて、透かして見ると、白っぽいオレンジ色の光が斜めになって〉いて〈画面のなかから熱が反射しているような感じ〉や映写機の回る〈音〉などを含む〈触覚的雰囲気〉、〈光の膜というか、ヴェールみたいなのがあるところとか、暗さとか、窓のカーテンとか〉…これなどまさに、金井美恵子の小説の中で、何度となく生きて生き直して来た光景ではないかと思う。映画とのかかわりを語る言葉、その体験、そこにある欲望に敏感に反応し、身を委ねるようにして、この上なく快楽的なかかわり方をする、その肉体的な体験を語る際の言葉。読むたびに、金井美恵子は自らの体験した快楽を、映画という欲望を、魅惑として、何よりもモラルとして、書くことで実践しているのだ、と思う。如何に影響を受けているとか、そういうことではなくて、もっと近く、親密な、それこそ、金井美恵子がまさしく〈映画を見なかったら小説を書くこともなかった〉作家であることを思い知るのだ。 
例えば〈『ピクニック』の雨粒が川の表面に落ちかかり呑みこまれていく、上流へと遡る移動撮影の息を呑むような目まいの感覚〉、〈フィルムのなめらかにきしむ肌触りがあまりにもあからさまにこちら側の肌にこすりつけられるような、視覚的というより、全身的な体験としての移動撮影〉について、或いは〈現在〉〈現在性〉と言うものについて、〈語ることにつきまとう語っている現在〉〈それが常に現在であるというフィルムの本質〉〈絶え間なく連続して見える現在としての光のたわむれ〉たるフィルムの、〈現在性〉について。何によって魅惑されるか、何に対して敏感であるのかと言うこと。直に触れ、肉体をもって体験したそれらのことについて語る言葉。魅惑されたことの、肉体的な記憶について語る言葉。影響と言った表現ではあまりにも遠い、もっと自らと一緒くたになるような絡み合うような溶け合うような水性の結びつき方をしているそれらのことについて。
 〈映画というより作品と呼ばれるものの持つ限界としての、はじまりと終わりによって完結される連続的時間に苛立つこと自体が、そもそも荒唐無稽なことなのだろうか。完結性を食い破る《作品の廃墟》としての作品を夢見ることが──。〉或いは何に対して苛立ち、何を夢見るのか、と言うことでもあるだろう。 

 つくづく思うことは、この本を1983年10月(まだ生まれてもいないが…)に買って読んでいれば、と言うことで、そうしていれば、例えば2017年5月に『カストロの尻』を買って読んだ際に、この本のことを、この本の蠱惑的な黒色と灰色と白色、陰影と光線を、或いはこの本の中に書かれている快楽の数多を、幸福として、何層にも何重にも重なり合って絡まり合って重層的な、幸福として、自分は思い出したに違いないのに。ずるずると引き出されるようにして思い出したに違いないのに。